グイノ神父の説教

 

A年

復活節から

キリストの聖体の祭日まで
 


   

復活のの祭日
復活説第2主日
復活説第3主日
復活説第4主日
復活説第5主日
復活説第6主日
主の昇天の主日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の主日



                復活祭 A 202349日    グイノ・ジェラール神父

                    使徒10,3437-43  コロサイ3,1-4  ヨハネ20,1-9


 ペトロと他の弟子たちがキリストの復活を宣言するとき、彼らはいつも聖書のテキストを振り返り、思い起こさせます。その理由は、イエス自身が彼らに復活の出来事を信じることができるように同じことをしたからです。「イエスは、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された(参照:24,272445)とルカは教えています。神の言葉である聖書の支えがなければ、復活を信じることは全くできません。イエスは神のみ言葉であるので、彼だけが自分自身について真実をもって語ることができます。イエスはそれを何度も繰り返しました。「私が来たのは聖書の言葉を完成するためです」(参照:マタイ5,17)と。


 もし私たちが、神が誰であるかを理解したいなら、もし私たちが、イエスが私たちに与えようとしているものを受け取りたいのなら、聖霊が私たちを導き、私たちを成長させてくれることを望むなら、私たちは聖書を読み何度も読みかえさなければなりません。私たちは皆、エマオの弟子たちの経験をしなければなりません。彼らは「イエスが聖書を説明してくださったとき、自分たち心は燃えていた」(参照:ルカ24,32)ことを隠しませんでした。

40日間、使徒たちは復活したイエスを見て、彼に触れ、イエスとともに食事をしました。しかし、最終的に復活を信じるようになったのは、聖書の教えを読み直したときでした。復活を信じるには時間がかかりました。なぜなら、イエスの昇天の時、何人かの使徒たちはまだ疑いを持っていたとマタイが指摘しています(参照:マタイ 28:17)

このように、聖書を読むことによって復活の神秘が啓示され明らかになり、私たちに信仰と希望の道を開きます。確かに、よみがえられたイエスはご聖体の中に、また彼の名によって二人か三人が集まっているところにおられるだけでなく、特にイエスの言われることに耳を傾けるために聖書を開き、神のみ言葉に自分の心を開く時にこそ、復活したイエスは私たちのすぐそばに現存しています。

使徒たちの信仰、パウロの信仰、私たち自身の信仰は、聖書に記され、イエスによって完全に実現された神の約束に基づいています。神の言葉の光の下に身を置くことを学ぶ人は誰でも、「光の中で光を見る」(参照:詩篇 36,10)ことで、容易に神の親密さに入ることができます。
 聖書を読む時間を見つけられない人、あるいは読んだ箇所を思い巡らして祈らない人は、誰でもイエスが言ったように、「物分かりが悪く、心が鈍く、信じられない者」(参照:ルカ24,25)のままに残ります。誰もイエスについてすべてを知っていて、自分に対して聖書はもはや秘密がないとは言えません。なぜなら、神の言葉は永遠であるので、いつも新たにされて、毎日新しいものをもたらすからです。神は私たち一人ひとりの心に個人的に語られます。ですから、聖書を読むことで、神が語られていることを理解することができます。

第二バチカン公会議以来、カトリック教会における聖書の朗読が再び脚光を浴びるようになり、また聖書講座が各地で開催されています。しかし、注意しなければならないことは、私たちはイエスが聖書を読んだように聖書を読むことを学ばなければなりません。「この聖書の言葉は今日実現した」(参照:ルカ4,21)それはイエスがナザレの人々に最初に教えようとしたことです。それは今日こそ、神の言葉は私たちの心を温めながら豊かに聖霊の知恵を私たちに与えよとします。ですから、キリストの復活を祝うこの日に、「心を閉ざすのではなく、聖書を手に取り、主の声に耳を傾けましょう」(参照:詩篇95,8 )。 アーメン、アレルヤ、アレルヤ。

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            復活節第2主日  A年   2023416日  グイノ・ジェラール神父

                使徒 2, 42-47      1ペトロ1, 3-9     ヨハネ20, 19-34

 トマスにはニックネームがありました。彼はディディモ、つまり「双子」「ツイン」と呼ばれていました。トマスはある意味で、私たちの双子の兄弟であり、私たちによく似ています。何故なら、このトマスは、自分が見たものだけを信じたいと思っていますから。

 イエスの死後、取り残された使徒たちは恐れていました。彼らは自分たちが安全だと信じるために同じ場所に閉じ籠もったままでした。彼らがあらゆる対策手段を講じて、ドアをしっかりと閉ざていたにもかかわらず、イエスが彼らの真ん中に現れたので、彼らは益々混乱しました。幸いなことに、イエスは彼らに平和を与えますが、彼らがマグダラのマリアと他の女性の証言を信じなかったことを咎めます。そして、自分が本当に復活したことを証明するために、イエスは自分の傷を使徒たちに見せ、傷に触れることを許します。

 その日、トマスは使徒たちと一緒にいませんでした。イエスが生きていると告げられると、トマスは彼らが体験したこと、つまりイエスご自身を見ることやイエスに触れる権利を主張します。実際、トマスは、マグダラのマリアと他の女性たちを信じたくなかった使徒たちの立場に自分自身を置くのです。そういう訳で、イエスはトマスの信仰の欠如を咎めます。確かに、他の使徒たちと違って、トマスは34人の婦人たちのうわさによるのではなく、10人の使徒たちの口から直接に証しを受けたからです。


 8日後、トマスはイエスが本当に復活したことを自分自身で断言できるようになりました。「私の主、私の神」と叫ぶことによって、彼の信仰は最高のレベルに達しました。この信仰は今や私たちのものであり、毎週日曜日に宣言しています。

 使徒たちが一箇所に集まっているとき、トマスはそこにいませんでした。この箇所も多くの教会と同じ状態です。それはミサ祭儀の欠席者が多いのと同じです。実際、私たちはここでキリストの周りに集まっていますが、悲しいことに多くの兄弟姉妹が出席していません。教会内のキリスト者たちの中には行方不明になっている者もいます。彼らは、復活されたキリストと神が私たちに提供する永遠の救いを私たちと一緒に祝うことができません。

 イエスがここで私たちに与えてくださる平和と赦しがなければ、これらの人々はどのようにして自分の信仰を育て、それを他の人に伝えることができるでしょうか。死から命へ、争いから赦しへ、不和から平和へと移行するために、ここで私たちはミサ祭儀を祝い、教会の秘跡を受けてます。またここで、同じ家族、神の国の家族に属する私たちは、兄弟姉妹として生きることを学びます。ここで私たちの賛美と祈りは、天使と聖人のものになります。ここで、私たちは聖霊の賜物と、私たちを義とし、聖化する神の命を豊かに受け取るのです。

 私たちは聖トマスと共に、イエスの名によって集まっています。その私たちの真ん中に復活されたキリストは立っておられることを信じています。「私たちは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています」。

 ですから、今日、私たちの信仰を宣言することを恐れないようにしましょう。イエスは生きていて、私たちを愛し、赦し、平安を与えてくださいます。また、私たちの喜びを示しましょう。私たちは本当にキリストの体のメンバーですから。イエスは私たちを永遠に生きさせてくださいます。アーメン、アレルヤ、アレルヤ。

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             復活節第3主日 A 年   2023423日   グイノ・ジェラール神父

                  使徒 2,1422-33      1ペトロ 1,17-21      ルカ 24,13-35

 エマオの弟子たちの物語は、私たちに信仰の道を示しています。まず、第一に、イエスは自分について弟子たちが話し合っていることに耳を傾けます。そしてイエスはこの話について自分の意見を聞かせます。同時にイエスは教えながら弟子たちの知恵を引き出し照らします。そして最後には、イエスは自分の姿を隠しますが、裂いたパンとして自分自身を霊的な食べ物として弟子たちに与える人です。

 すべてはエルサレムからエマオへ向かう長い旅から始まります。イエスはお忍びで、ご自分について話している二人の弟子に追いつきます。イエスは彼らの会話に参加されます。このようにしてイエスは、自分について話しているこの二人の弟子たちの意見が分かります。確かに、彼らはご自分の受難、十字架上での死、埋葬の事を詳しく知っていました。二人の弟子たちは、婦人たちがイエスを見て話しかけたことを知っていましたが、他の弟子たちと同じよう彼らも婦人たちの証しを信じていないことに気づきました。そこで、イエスは彼らの絶望や落胆も確認しました。

 彼らのことを理解してからイエスは話しました。歩きながら イエスは聖書のテキストを解説します。イエスは近い過去の出来事の意味を彼らに説明しながら、彼らの知恵を徐々に啓発していきました。すると、弟子たちの心は燃え始めます。道中のイエスはすでに長い時間語られましたが、弟子たちはもっと、もっと知りたいと思いました。そいう訳で、二人の弟子たちは、自分たちと一緒に食事をするようにイエスを無理に引き止めようとしました。

この食事の間にイエスが彼らにご自身を明らかに啓示し、秘跡の裂いたパンの姿で、ご聖体として彼らの手の中に残りました。二人の弟子たちには、もうイエスの姿は見えませんが、彼らの燃える心の中にイエスがいます。それで喜んでいる弟子たちは、イエスが本当に復活していることを知らせるために、急いでエルサレムに戻ります。この二人は本当にイエスを見、聞き、彼に触れることが出来ました。それは、イエスが彼らを変化させて証人とされたことを皆に伝えたいからです。


 歩きながら、きっとイエスは弟子たちに、神が息子を犠牲にするように求められたアブラハムの話を思い出させました。アブラハムは、「神にはイサクを死からよみがえらせる力があると信じた」(参照:ヘブル11,19)ことを思い起こさせ、また、イエスは、神がモーセに「アブラハム、イサク、ヤコブの神が、死んだ者ではなく、生きている者の神」(参照:マタイ22、32)としてご自身を啓示されたことを二人の弟子たちに思い出させました。このようにイスラエルの民の全歴史を辿りながら、イエスは彼らに神の愛がどこまで行くかを、そして、「愛する者のために命を捨てることよりも大きな愛はない」(参照:ヨハネ15,13)ことを示しました。この愛は死に打ち勝ちます。イエスは世界を救うために愛のために死んだので、彼は復活しました。

私たちも信仰の道を歩み続けています。私たちがイエスを見なくてもイエスは私たちに付き添ってくださっています。イエスは私たちの望みや不満に耳を傾け、時が来れば私たちの自信と勇気を回復させます。そのことを私たちはよく知っていて、また信じています。なぜなら「イエスは復活している」からです。イエスの言葉は私たちの信仰を養い、彼の体は本当に私たちにとって永遠の命のパンです。

私たちの日常生活の道には「見知らぬ人」が時々私たちに加わります。私たちが彼らを歓迎し一緒に歩くように誘うことをすれば、きっとこの見知らぬ人は私たちに良い知らせ、喜びを運ぶ命のメッセージを伝えるに違いありません。これらの見知らぬ人を通して、私たちの心を温めるために来られるイエスを見分けて、認識できるならば私たちは幸せな人です。アーメン。

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        復活節第4主日  A年  2023430日   グイノ・ジェラール神父

            使徒2, 14, 36-41     1ペトロ2, 20-25     ヨハネ10, 1-10

 イエスは復活しました。イエスは、命の扉を開きました。イエスが来たのは、人が命を得るために、しかも、彼らがそれを豊かに受けるためでした。自分が羊のために命を捨てる良い羊飼いであることを今日の福音書の最後の箇所でイエスが断言しました。私たちのために捧げる命が豊かであるようにということが、イエスの強い願いです。復活したイエスはいのちの扉を大きく開き、そして私たちが回心するようにと私たちの心の扉を叩いています。

  ペトロがエルサレムで宣言した説教から2000年が経ちました。「回心せよ」と彼は言いました。すなわち「神の味方になってください。イエスの死と復活が与える命に入ってください」と、ペトロは勧めています。ペロが書いた手紙の中で、イエス本当に私たちの羊飼いであるから、私たちはもはや、さ迷っている羊ではないことを思い起こさせました。私たちの人生には意味があります。と言うのも私たちは神ご自身の命に生きるように召されているからです。

 イエスは私たちをよく知っていて、愛しているので、私たち一人ひとりを名前で呼んでいます。イエスは、真の命へ大きく開かれた扉です。この扉はとても狭いですが (参照:マタイ7,14)、永遠の幸福に通じています。よい牧者のイエスは、平和と愛の言葉で私たちに語られます。イエスは、神の子どもとしての私たちの生き方を妨げるすべてのものから私たちを解放し、私たちを安全に導き、あらゆる形の悪から私たちを守ってくださいます。世界をリードする方法を誰も知らない現代では、すべてがあまりにも急速に変化するため、日々の生活に直面し、試練にしっかりと立ち向かうための確かなガイドが必要です。イエスこそは「自分の羊の先頭に立って歩む」よい羊飼いです。つまり、イエスは私たちから危険を遠ざけるために私たちの前に歩み出ます。ですから、イエスに忠実に従うことは、実に安全に命の道を歩くことです。

ヨハネの福音書で、イエスは自分自身を描写しました。彼は、人々に奉仕し、人々をあらゆる悪から守るために父なる神から遣わされています。イエスは「道であり、真理であり、いのちです」(参照:ヨハネ14,6から、彼の声が欺くことはありません。イエスはまた、仕える者としてご自身を表しています。彼は愛する方法しか知らないので、奉仕することだけを考えています。最後に、イエスは真の神であり、「わたしを見た者は父を見た」(参照:ヨハネ12,45 、ヨハネ14,9)と宣言しています。

  私たちが、神を見つけ、愛し、奉仕する心を得るためには、イエスに従わなければなりません。私たちに呼びかける神の誘いを聞き分けるためには、私たちがキリストの言葉に耳を傾けることが必要不可欠です。間違いなく、神の命を豊かにいただくためには、私たちはイエスと共に一瞬一瞬忠実に歩まなければなりません。ですから神の愛が私たちを回心させ、私たちを救ってくださるキリストにますます結びつけられるように、共に祈りましょう。 アーメン。


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              復活節第5主日A 年  20235月7日    グイノ・ジェラール神父

                    使徒 6, 1-7     1ペトロ 2, 4-9     ヨハネ14, 1-12

  聖ヨハネが書いた福音書の13章の終わりから14章の初めにかけて3人の使徒、ペロ、トマス、フィリポが身を乗り出してきます。まずペトロがイエスに簡単な質問をします。イエスは彼の質問に答えません。今は自分について来ることは無理だと断言しました。ペトロはイエスの答えを受け入れず、確信を持って反論します「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(参照: ヨハネ 14, 27) と。イエスはすぐに「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と答えます。

 使徒ペトロの後、今度はトマスの番です。彼はイエスが自分の言うことにもっと具体的に説明するように求めます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と。イエスの答えはかなり不可解です。「私は道であり、真理であり、命です」と。そして、すぐにイエスは使徒たち皆がよく知っているご自分の父のもとに帰ることをはっきりと打ち明けます。


 その時、フィリポは少しイライラしながらイエスに質問します。「主よ、あなたはずっと前からご自分の父について私たちに話していました。最も簡単な方法は、あなたの父を私たちに見せることです。これで十分です。『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』」と。フィリポに与えたイエスの答えは、ペトロとトマスに与えられた答えと同じくらい不可解です。「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」と。

 長い神秘的な教えを通して、イエスは弟子たちに自分たちの物事の見方を変え、信仰を深めるよう勧めます。私たちも、ペトロ、トマス、フィリポのように、イエスをもっと理解したいと望み続けています。イエスの言葉がもっともっと私たちの知恵を照らし、私たちを安心させ、力づけてくれることを願っています。フィリポが受けたイエスからの答えをそのままイエスに返すことができると思います。「主よ、私たちはこんなに長い間あなたと一緒にいるのに、まだ私たちはあなたをはっきりと知りません。あなたについてほんの少ししか解らないからです」と。

イエスは真理であり命であるだけでなく、真理と命へ導く道でもあります。イエスは神の顔であり、私たちはイエスの体の部分です。私たちはこの事すべてを知っており、信じていますが、日常生活でそれを明らかに示す方法を見つけることが中々難しいです。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたが神の驚くべき業を広く伝えるためだ」と言うことをいくら聖ペトロが宣言しても、私たちがこの使命に正しく対応するはほど遠いです。

私たちが勇気を持ち続けるように、イエスは福音の中で御父についてよく語っています。イエスは、この世の中で父なる神の存在の臨在の秘跡です。イエスは父なる神を示すために、また私たちを父の方へと引き寄せるために来ました。そしてそれを証しするためにイエスはこのびっくりさせる約束をしました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と。

イエスは私たちを父なる神との契約、そして無限の愛の関係に置くために来られました。従って、私たちの生活のこの本質的な側面を完全に理解するよう努めましょう。イエスが私たちに与えてくださった神聖な命を十分に生きることができるように、聖霊が私たちを「完全な真理に」(参照:ヨハネ16,13)導いてくださるように、一緒に祈りましょう。 アーメン。

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         復活節第6主日A年   2023514日     グイノ・ジェラール神父

             使徒8,5-814-17   1ペトロ 3,15-18      ヨハネ14,15-21

 今日の典礼の朗読はすべて、キリスト者たちが裁判に連れて行かれ、死刑の宣告を下された迫害の時代に書かれました。イエスは、自分がまもなく大祭司カイアファとポンティオ・ピラトの裁きの座に連れて行かれるということを知って、弟子たちに知らせます。そのような理由で不当に告発された人々の弁護に来る聖霊についてイエスが語っているのです。

 使徒言行録に記されているフィリポは、エルサレムの未亡人や貧しい人々の世話をする責任がありました (参照: 使徒6,1-6)彼は、ステファノ石打ちの刑で殺された後、迫害から逃れるためにサマリアに避難しました。聖霊に満たされて、彼は福音宣教の働きを首尾よく始めます。同時に、後に聖パウロとなるサウロはシリヤまでキリスト者たちを追い詰め、迫害します(参照:使徒 9,1)。

 当時エルサレムのキリスト者たちに迫害を逃れるよう勧めていた使徒ペロは、数年後、小アジア中に「散らばったキリスト教徒」に最初の手紙を書きます。当時のキリスト者たちは、不快感、批判、嘲笑、悪、告発、追放を免れませんでした。ローマで最初の手紙を書いたペトロも迫害の犠牲者になることを理解していました。最悪の事態を予想してペトロは、キリスト者たちに彼らを批判し、迫害する人々に直面する時人々を恐れたり、心を乱したりせずに、抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えているように」と求めています。

 このように、すでにキリストに対して荒れ狂う憎しみと暴力は、イエスの死で止まりませんでした。これらの憎しみと暴力は新たな勢いで再開し、最初は何人かの使徒たち、特にペトロとヨハネに向けられ、次にステファノの石打ちの刑の直ぐ後には初代教会の人々に及びました。迫害はますます激しくなり、キリスト者たちはパレスチナの町や村、隣の国々に散り散りに去っていきました。

 キリストはこの状態をあらかじめ警告しました、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(参照:ヨハネ15,18)と。イエスは弟子たちにも恐れないように勧めています。確かに、父なる神は彼らに弁護者、別の守護者、真理の霊を与えてくださるからです。そして、彼らの信頼と確信を強めるために、イエスは彼らとご自身との間に、ご自分と御父とを結びつけるのと同じ絆を築くことを約束されています。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と。

  この親密さは、試練や迫害に直面したときのキリスト者たちの信頼の土台です。真理の霊は迫害されている人たちを導いて真理をことごとく悟らせます(参照:ヨハネ6, 13)。彼らが嘲笑されたり、軽蔑されたり、中傷されたりしても、聖霊は常にキリスト者たちに前進し、恐れることなく信仰を証しするために必要な保証を必ず与えてくださるでしょう。もしイエス言われたよう私たちが「イエスを愛しているならば、彼の愛の掟を守るなら」、聖霊の力の内に復活されたイエスは、人生のすべての試練を乗り越えるために強い確信を私たちに与えてくださるでしょう。 アーメン。

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           主の昇天の主日 A  2023521日  グイノ・ジェラール神父

                 使徒1,1-11   エフェソ1,17-23   マタイ28,16-20

 イエスは父なる神のみもとに戻りました。それは彼の教会が羽ばたくことができるようになるためです。イエスは私たちの目から消えますが、私たちを見捨てることはありません。実際、イエスは世の終わりまで私たちと共にとどまり、そして私たちに聖霊を残してくださっています。

 これからは私たちを通してイエスが世界で救いの業を続けるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とイエスは私たちに願います。イエスを信じる人々に、イエスの教会に命を吹き込む力が与えられています。

私たちが孤児にならないように (参照:ヨハネ14,18 ) イエスは私たちに聖霊を与えてくださいます。この聖霊は私たちを教会に集めて結びつけ、私たちを兄弟姉妹として生きさせ、私たちの信仰を強め、照らします。「私たちを導いて真理をことごとく悟らせる」(参照:ヨハネ16,13)ので、聖霊は神のみ言葉と教会の秘跡によって私たちを養います。彼はまた、私たちが福音を宣べ伝える方法を見つけるのを助けてくれます。


 聖霊はまた、恐れることなくイエスの御名を宣言する力を私たちに与えてくださいます。「あらゆる名にまさる」(参照:フィリピ2,9)この名を、愛、信仰、謙遜、敬意を持って発音しなければなりません。実際、私たちがイエスの名によってここに集まっているのは、まず、第一に、私たちがイエスの名によって洗礼を受けたからです。私たちが父なる神に祈りを捧げ、神の赦しを受けることができるのは、イエスの名においてです。

ですから、聖パウロと共に、イエスがご自分の光に「私たちの心を開き、私たちに与えられた希望を悟らせて下さるように」願いましょう。イエスが昇天された理由は、それは私たちを彼と共に神の元に引き上げるためです。事実イエスが 聖霊の力とダイナミズムを私たちに与えるのはこのためです。昇天で最も高い天に昇られたイエスは神の永遠の内に私たちを連れて行くためです。しかし、私たちが常に目と心を父なる神に向けるように、イエスはずっと私たちの時と歴史の中で共に留まります。

復活祭のイベントで、キリストと人類は死から命へと移行します。昇天の出来事で、キリストと人類は地球から天国へと移ります。最後に聖霊降臨の出来事で、キリストと人類は全世界に福音の良い知らせを述べ伝えるためにイスラエルの地を去ります。

 イエスは道であり、真理であり、命です。イエスの昇天は、私たちの地上での生活が、天国での生活への準備であることを思い出させます。主の昇天の祝い日は、私たちにとって喜びと希望の源でなければなりません。なぜなら、この祝い日が聖霊の賜物で私たちを満たす聖霊降臨の祝日に私たちを導くのです。ですから、イエスの名において、私たち一人ひとりが聖霊の力と天国の喜びで満たされるように父なる神に願いましょう。 アーメン。

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          聖霊降臨の祭日   A 2023528日  グイノ・ジェラール神父

             使徒2,1-11     Ⅰコリント12,3-712-13     ヨハネ20,19-23

  人生は燃える火のようなもので、どうしても自分を伝え広める必要があります。この命の賜物は、聖霊によって私たちに伝えられます。父なる神と御子と共に、聖霊は世界の創造者であり、創造された宇宙の救いを保証します。また御父と御子と共に、聖霊は教会の命、そして教会の目的の誘因です。

  聖霊降臨の出来事は神からの贈り物です。私たちに聖霊を与えることによって、神は地球の面を新たにします。つまり、新しい創造を作り始めます。私たちが直面している問題に対して、聖霊降臨が新たな始まりへの希望を私たちに与えてくれます。なぜなら、イエスは、すべてのものを新しくするために来られると約束されたから (参照;黙示録 21,5)です。

 聖霊はまず私たちに一致の賜物を与えてくださいます。これは最初のキリスト教共同体に見られました。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし…彼らは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(参照:使徒2,444,32)。聖霊に満たされた使徒たちが彼らに語ったことを、人々皆が自分の母国語で理解したという事実は、神が与えてくださった一致の最初の具体的なしるしです。

 また、聖霊の第二の賜物は私たちを恐れから解放し、私たちを証人にします。私たちが証しすることはすべての人のために回心、喜び、賞賛の泉になります。「信者たちは皆、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、喜びと真心をもって一緒に神を賛美していた」。こうして主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。このように、聖霊降臨のまさにその日に、3000 人が改宗しました。

聖霊は愛の霊です。彼は私たちの愛する能力を強めるために来ています。聖霊は、私たちの心に宿り、私たちの存在を分かち合い、私たちと一つになることを望んでおられる慈しみ深い神です。神は私たちをご自分の神聖な命と聖性に与からせたいと望んでおられます。「 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためだ」と聖パウロは思い出させます。兄弟姉妹として生きることは、それぞれの人の才能と特技を認めることであり、そしてその人が自分の才能に対して自信を持たせるように努めることです。そうすれば、神がそれぞれの人に与えた賜物が共同体全体の利益になります。


 聖霊降臨から聖霊降臨へ、この年から次の年へ、日ごとに、聖霊の力によって神は絶えず、私たちを妨げているものから救い出し、私たちを新たにされます。神が私たちに与えてくださる聖霊は、真実と愛の霊です。 私たちは彼に祈ることを学ばなければなりませんが、何よりも彼に導かれるようにしましょう。私たちはまた、たとえ私たちがそれに気づいていなくても、或いはまた洗礼を受けた日から何も変わっていないように見えても、聖霊が私たちの中で成し遂げたことすべてに感謝しなければなりません。聖霊は私たちの中で謙虚に働いてくださるので、私たちも謙虚に聖霊に感謝しましょう。アーメン。
                           

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          三位一体の祭日  A年   202364日  グイノ・ジェラール神父

             出エジプト34,4-9     2コリント13, 11-13    ヨハネ 3,16-18

 毎週日曜日には、聖パウロのコリント人への手紙の言葉で、私たちはミサ祭儀を祝い始めます。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」と。この言葉が、私たちを祝福し、聖化するために、ここに私たちを集めてくださるのは、父と子と聖霊の神であることを思い起させます。

 三位一体の神は愛です。昔、神ご自身がモーセにご自分の名を明らかにされました。「主、主、憐れみ深く恵みに満ちた神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」と。イエスは、神が「私たちの父」でもあり、私たちと共に永遠を生きたいと願っていることを私たちに理解させました。これを成し遂げるために、神は御子を私たちに遣わされました。

 イエスは私たちのために死んでよみがえり、聖霊を与えてくださいました。この聖霊は「世にあって、キリストの救いを全うし、聖なるものとするわざをすべて完成してくださいます」(参照:ミサ第4奉献文)

 私たちは唯一の神、愛の神を信じています。神は三位一体の神でもあると信じ、断言することで、神の愛には 三つの次元があると私たちは言っているのです。先ず一つ目は、永遠の次元(父なる神の次元)、二つ目は地上的で人間的な次元(御子であるキリストの次元)、そして三つ目は普遍的な次元(聖霊の次元)です。この三つの次元である神の愛は、私たちに完全に与えられています。それは、神が私たちを愛してくださるように、私たちも同じように愛することができるためです。「神が聖なる者であるように私たちも聖なる者となるように」(参照:レビ記 192)招かれ、また「神がいつくしみ深いように、私たちもいつくしみ深い者となるように」(参照:ルカ 636)招かれています。


 聖書によれば、神が人間を「御自分にかたどって」(参照: 創世記 1, 27)創造し、また「人間を神に近い者」にしました(参照: 詩篇 8, 6)。それは人間にご自分の愛のすべてを注ぎ与えるためでした。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(参照:ローマ5,5)。このように、人は日々の生活の中心で、神の愛に生きるように絶えず招かれています。なぜなら、この愛は、人を父なる神、御子と聖霊の一致に与らせるからです。私たち十字を切るたびに、このことを思い出します。

 三位一体は、愛の神秘です。私たちの言語で、また私たちの持っている知恵だけではこの神秘を完全に表現することも理解することも到底できません。しかし、この神秘は私たちを生かし、日々私たちを変容させます。この神秘を簡単に説明するなら、次のように言えるでしょう。父なる神は御子を無限の愛のうちに産みだし、遣わします。神のことばである御子は父と完全に一致して、そのみ旨を成し遂げます。御父と御子からの賜物である聖霊は、御父と御子との交わりにおいて、すべてのものを聖化し、真理のうちに私たちを愛の完成へと導きます(参照:ヨハネ 16,15)

 ですから、この日に当たって、神が私たちの心にご自分の愛の豊かさを注ぐように願いましょう。「神の栄光と賛美のため、また私たちと全教会のために」(参照:奉献の祈りへの答え)、神と隣人に対するこの愛が私たちの心から溢れるように一緒に祈りましょう。アーメン。

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         キリストの聖体の主日  A年 2023611日  グイノ・ジェラール神父

             申命記 8,2-314-16   1コリント10,16-17  ヨハネ 6,51-58

 キリストの聖体の主日の祝いは、私たちを養い、渇きを癒やしてくださる神に感謝するよう私たちを招いています。かつて、砂漠を旅していたイスラエルの民に対して神がなさったように、今もそれを続けています。しかし、今度は、神が私たちを生かし続けるのは、天から落ちるマナや岩から湧き出る水によってではなく、ご自分の子イエスの御体と御血によって私たちを生かし続けるのです。

 この命の糧は私たちをキリストにしっかりと結びつけます。この命の糧は私たちをいくつかの体にするのではなく、ただキリストご自身の体という単一の体にします。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です」と聖パウロが思い起こさせます。ちょうど一つのパンを作るためにたくさんの小麦の種が必要なのと同じように、私たちも大勢が共に集まってキリストの体となります。

「パンの家」と訳するベツレヘムの村で生まれ、食べる場所である飼い葉桶に置かれたイエスは、自分自身について「私は命のパンである」と断言しました(参照:ヨハネ 6,35)。イエスは私たち一人ひとりにご自身を完全に与えて、私たちをご自身の体、永遠の命を宿す体にします。私たちをご自身の体、永遠の命を宿す体にするために、イエスは私たち一人ひとりにご自身を完全に与えてくださいます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる…わたしを食べる者もわたしによって生きる」とイエスは約束し、また実現します。


 エスが数回繰り返したパンの増は、私たちを満足させる食物としてご自身を与えようとしているイエスの意志を示しています。「五千人以上の人々が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もありました」(参照:ルカ9,17)。 命のパンであるイエスは、豊かに溢れる愛をもってご自身を私たちに与えてくださいます。そのうえ、イエスは、私たちが受け取ることができる以上のものを常に与えてくださいます。それは、与えてくださる永遠の命とは何かを理解させるためです。分かち合いのしぐさで、イエスは世界に命を与えるために自分自身を与えます。

 ご聖体は人間に対する神の愛の卓越したしるしです。それは完全な一致のしるしであり、永遠の命をもたらす分かち合いのしるしです。聖体拝領によって私たちは自分の内に贖いの神秘の実を受けることができます。実際に、キリストはご自分の死を前にして、パンとぶどう酒だけでなく、彼自身の命も弟子たちと分かち合いました。私たちがよく知っている言葉を言いながら、イエスはそれを行いました。「これは私の体であり、これは私の血であり、私が与えるのは私の命です…世を生かすために」と。

 キリストの体をいただくことは、一致と分かち合いへの招きであり、またキリストの命を親密に生きるようにとの呼びかけです。私たちは皆、このことを十分に認識している必要があります。日曜日のミサの間、神のみ言葉とキリストの御体を頂くことはとても良いことですが、それだけでは十分ではありません。ご聖体を人に与え時に、聖アウグスティヌスはいつも「あなたが受け取る者になりなさい」と言いました。つまり、「キリストの命をあなたの中に同化させ、世に命を与える新しいキリストとなりなさい」と言う意味です。

 私たちがこの世界が必要としているこの新しいキリストになるために、聖霊が助けてくださいますように。 アーメン。

                       

 


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